会社や家庭で納得いかないこと、思うようにいかないことがあって、その夜、自分の部屋で布団をかぶって悶々とすることは誰にでもあると思う。ところが、次の日の朝、新聞をとりに玄関の外に出て門に向かい外気をたっぷり吸い、ふと空を見上げると、自分の悩みなんてこの大空に比べたらちっぽけだな、と癒されることも多くの方が経験したことがあるはずだ。
私は晴れ渡った青空より晴れ間に大きな雲が悠々と気ままにゆっくりと流れているようすがお好みである。また、しっとりと降る雨も悪くない。雨は平等だ。草木や鳥たち、橋や道路、裕福な家も貧しい家も、幸せな者もそうでない者も、分け隔てなく湿らせる。さっきまで上空彼方で私たちを見下ろしていた雲の一部が雨粒となって舞い降り、私たちの身近な生活と溶け合うのだ。
話を戻そう。なぜ空を見上げると自分の悩みがちっぽけに見え、安心するのか、慰められるのか、癒されるのか。だって、よく考えて見て欲しい。雄大な自然と比較して人の悩みというのは取るに足らないというところまでは正しいのだろうが、その事実は、何よりもまず「自分の小ささ」の証明であり、ますます自分を凹ませることはあってもどうゆう理屈で自分の安心や癒しに繋がるのだろうか?
私なりの答えはこうである。ふと大空を見上げるとき、私たちは無意識に、無自覚に、自分が大自然の一部、もっというと宇宙の一部であることを感じとっているからではないか、視点があっち側(=人間である自分側)からこっち側(=大空側=宇宙側)に移って見下ろしている感覚、すなわち自分の悩みから切り離された感覚を味わっているからではないか、というものである。

私が目下勉強中の本、エックハルト・トールさんの著書「ニュー・アース」の冒頭では、地球で最初に花々が広く咲き誇り、色彩と香りが爆発的に広がり始める日のことを「それを目撃して認識できる存在があったとすれば」と表現している。すなわち私たち人間が存在しようと存在しまいとそこに花々や大空はあったわけで、彼らは私たちを癒すために存在している訳ではないということだ。私なりにこの本の内容をこの「お悩みサイズダウン現象」にあてはめてみると、悩みというものは私たちが勝手に作り出したもので、「自分だけが不当におとしめられている」「うまくいかなかったらどうしよう」「自分だけが正当に評価されていない」「あの人に嫌われたらどうしよう」「自分だけが損な役回りを押し付けられている」といった思考は-今私は「私たちが勝手に作り出した」と表現したが正確には-私たち人間に宿るエゴという自己防衛の思考プログラムがつくりだしたものであって、私たちはエゴがつくりだした悩みを自分という人格がつくりだしたものと錯覚して、その深みにどっぷりはまってしまう、というようなことである。
私の独自の解釈も盛り込んでしまったが、そうしてみると、大空やそこに浮かぶ雲たち(そして私にとってはその分身である雨たち)は、エゴがつくりだした悩みとぴったりと重なってしまっている「ほんとうの自分」をエゴから切り離し、エゴを俯瞰し、客観視するための触媒のような役割を果たしているといえる。いや、触媒というより、「こっちに還(かえ)っておいでよ」「こっちから見てみなよ」と私たちを招き入れる仲間のようなものだろうか。
今回はせっかくの毎朝の心地よい感覚に無粋にも解釈という余計な味付けを加える試みを行ったわけだが、うまく言葉にできない、名もない感覚というものは訪れては過ぎ去って忘れ去られてしまうものなので、私の試みが、お付き合いいただいたみなさんのピュアな感覚を邪魔するのではなく、「あ、この感じ…例のやつかもね」と感覚を研ぎ澄ます一助になっていただければ幸いである。


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