遠い昔、私にこんなことを教えてくれた上司がいました。「嫌なヤツと付き合わなければならないとき、自分はこう思うようにしてる。“こんなヤツみたいにならないようにしよう”ともう一つ、“こんなヤツでもどっかイイとこある”と。」
定年退職前に病に倒れ、若くして亡くなられたその上司(北見さんといいます。)が教えてくれたそのフレーズを、当時の私は、2つともなるほどシンプルで嫌なヤツと一緒にいてもイヤな気分にならないためのいい言葉だなあ、ぐらいに聞き流していました。当時は具体的な“嫌なヤツ”が思い浮かばなかったからかもしれません。(←これはこれで幸せモンですね)
他人の嫌なところは自分の望むものを明確にしてくれる
実は、北見さんのこのコトバを身にしみて感じるようになったのは最近のことで、ふとしたことで目にした奥平亜美衣さんの書かれた“復刻版 「引き寄せ」の教科書”という本の中の一節を読んだときのことでした。
その本では、嫌な人の嫌な面はその対極にある、自分が望むものを気付かせてくれる、というようなことが書かれていました。“自分はこんな人柄であったらイイなあ”とか“人と接するときはこんな気配りができたらイイだろうなあ”と目指すものが明確になると、その目指すものが手に入りやすくなるので、嫌な人と会うことで、理想の自分に近づける、ということだそうです。
実は“復刻版 「引き寄せ」の教科書”には、「鏡のなんちゃら」とは書いてなかったのですが、鏡は左右が逆に映りますので「望むもの」の対極の「嫌な面」が映されるのはまさに鏡の法則の一つの解釈と言っちゃってもよいと思います。
他人の嫌なところは、自分の持つ嫌な面である
それから私が触れてきた「鏡の法則」の説明としてはこちらの方が主流だったという解釈をご紹介します。他人の嫌な面が“ムカついてしょうがない”とか“どうしても許せない”と感じるほどに気になり、その考えに囚われてしまう人は、自身にもどこかそうゆう(嫌な)一面を抱えているそうです。自分が必死に押し殺そうとしている(嫌な)側面を自らのエゴの赴くままに発揮している他人に接すると、気になってしょうがない。「いやいや、オレとあいつを一緒にしないでくれ」と思ったあなたも、無意識レベル・潜在意識レベルでそこにこだわりを持っているかもしれません。なぜなら憧れであれ嫌悪であれ、こだわりがなければ「ムカつく」とか「許せない」と思うほど気にはしないはずですから。
嫌な人の嫌な面が気になって仕方がないという人は、それは自分を映す鏡だと捉えて、自分自身がそのこだわりから解放されるよう、北見さんの思考ルールを見倣ってみてはいかがでしょうか?バンカーに入れてはいけないと意識しすぎると吸い込まれるようにゴルフボールがバンカーに向かってしまう負のループから抜け出しましょう。
鏡の法則を受け容れる方法
それでも「アイツのあの態度が許されるなんてあり得ない」「あの人のやり方がまかりとおるのは理不尽だ」といった考えに支配されてしまう方にとっておきの解決法をひとつ。
それは、「みんな物語の登場人物だと考えてみる」です。あなたの頭から離れないアイツも物語で悪役を演じているだけだと考えてみるのです。悪役というのは“善なるもの”を際立たせるために存在している訳ですから、ジャイアンやスネオのようにわかりやすくデフォルメされていないと意味がないので、「今日のそのキャラ弱すぎね」とか「遠慮してもらっては困るんだよね」ぐらいのノリで楽しんでしまってはどうでしょうか。
ここで大切なのは嫌で嫌で仕方のない“アイツ”も悪“役”を演じているのだということです。ヒールと呼ばれる悪者のレスラーも興行が終わればみんな同じバスに乗って仲良く帰っていくように、ねじまがり、屈折したキャラの俳優さんも楽屋では主役、脇役さんたちとわきあいあいしているように、私たちは彼らの数多くの側面の中のほんの一面にしか接していないのです。彼らのプライべートだったり舞台裏の姿は知らないのです。ジャイアンもジャイ子に対しては優しいお兄さんであったりしますもんね。まさに“こんなヤツでもどっかイイとこある”です。
私たちの人生は、大切なものを学ぶために与えられたもので、送迎バスや楽屋に戻ればみんな“ひとつ”と考えれば、舞台上やリング上で演じる嫌なヤツ(=自分自身)を客観視して心穏やかになるのではないでしょうか。だって悪“役”をそんなに心の底から“憎たらしい”って思うことあります?
「思い定める」とは?
ここで多くの人が勘違いしてるんじゃないかなぁという私が勝手に思っているポイントのようなものに触れさせていただきますと、いろいろなメディアで「鏡の法則を説明してくれる人」は、この鏡の法則には神か創造主か法則を司る絶対的存在がいて、自分の前に「お前の欠点を教えてやろうじゃないか」と嫌なヤツを登場させる、というなんらかの意思決定行為が介在している、ということを言っているわけではないということです。
鏡の法則とは、他人は自分を写し出す鏡「のようなもの」であると「思い定める」ことで、自分の身に降りかかる苦痛や不快をやわらげ、湧き起ころうとする憎しみや責め心を鎮めるための「心の技法」であると認識した方がよいと思います。(この「思い定める」とか「心の技法」というコトバは田坂広志さんの著書から借用させていただきましたが、とてもしっくりくるコトバです。)「法則」と呼ぶから唯一無二の抗(あらが)えない真実と理解されがちですが、「心の技法」と呼べば、現実の出来事は自分の解釈次第でいかようにもなるんだなぁというふうにベクトルの向きが逆になってきます。
これは宗教にも同じことが言えると思います。神や創造主が本当にいるのかどうかは実はあまり重要ではなくて、信仰心を持つことによってわたしたちが心穏やかに日々をすごせることの方が大切なのだと思います。証明することができない絶対的存在を前提とすると議論が先に進みませんし(神を信じない人は嫌な人と出会ってもそこから何も学べないことになってしまう)、「私の信じる神は正しくて、あなたの信じる神は間違っている」というバカげた比較(そしてそこから生じる争い)が生じてしまいます。
わたしたちは、エネルギーや時間を注ぐベクトルを誤らないためにも、肝に銘じておきたいものです。鏡の法則も神も創造主も絶対的存在も、とある賢者が気づいたうまくコトバにしきれない何かをわかりやすく表現するために設定した「物語」にすぎないことを。
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