シャーロック・ホームズ的“依頼人との寄り添い方”

学び・気付き

 シャーロック・ホームズといえば、イギリスの小説家コナン・ドイルの作品に登場する、言わずと知れた稀代の名探偵ですが、私もご多分に漏れず、ホームズの魅力の虜(とりこ)であるわけです。「ご多分に漏れず」といったのは、ホームズのオマージュ作品である映画、ドラマ、アニメなどが数知れず生み出されていることからも、19世紀後半のこの作品が今なお色褪せることなく現代を生きるわたしたちの心を捉える輝きを放っている証にほかならないと感じるからです。(数十年前(40年近く前)にアニメで擬人化された動物が登場人物となっているホームズを見た記憶があります。犬のホームズがパイプをくわえてルーペを覗いて現場検証したりするのですが(他の登場人物もなにかの動物で、2本足で歩き、人間のコトバをしゃべります)、その動物である登場人物たちが馬車に乗ったり、ペットの犬をリードにつないで散歩させたりしている場面には、その自然さ・違和感のなさを大人になって思い出し、“そこ誰もツッコまんかったんかい”と40年の時を経て頭のなかでツッコんだりしたものです。)

 「“シャーロック・ホームズ”と名の付く作品は細大漏らさず見たい・読みたい」と私に思わせる理由を分析すると、そこにはホームズの「いつも変わらぬ快活さ」がありました。彼のもとに持ち込まれる案件は、悪質であったり、陰湿であったり、狂気じみていたりして、いつも依頼人を困らせ、不安がらせ、苦しめますが、ホームズ自身は真実に辿り着くために「嬉々として」謎解きに没頭します。そう、そして謎が深ければ深いほど彼のテンションはあがり、時に周囲の関係者を不愉快にさせるほどです。「不謹慎」との誹(そし)りを免れない彼の態度は、一見依頼人に「寄り添った」ものとは言えないかもしれませんが、ホームズは自分がどうすることが依頼人の利益になるのかよく自分で分かっているため、彼は自分が導かれたと感じるタスクに全力投球しているだけなのです。これが「ホームズ流」の依頼人との向き合い方であり、寄り添い方です。物語のなかでは、ホームズのハイテンションとワトソンの呆(あき)れ顔や依頼人の怪訝(けげん)そうな表情の対比が「ギャップ」として描かれていますが、これは当然コミカルさを表現する手法であって、ほんとうに、現実にホームズのように案件に向き合う探偵がそこにいたら、依頼人は現実に立ち向かう何かしらの勇気や力を彼から得られるに違いありません。そして、昨今の事件事故に関する報道での被害者の悲しみや絶望に執拗にフォーカスをあてたコンテンツに嫌気がさす理由がここにあるのかもしれません。私たちは不運な出来事が身近で(あるいは離れたところで)起きたときに、どう捉えるか、すなわち、直接の被害者でもないのに事件の悲惨さに飲み込まれてしまうか、自分にできることに最大限集中、全力投球できるか、ホームズの「不謹慎なほどの快活さ」から何か学べることはないか考えてみたいものです。

 それからもうひとつ、ホームズの前向きさを示す行動パターンとして「種まきしたらいったん忘れる」というものが挙げられます。事件捜査の過程では彼自身が調査する以外にも、浮浪児を雇って聞き込みさせるとか、新聞広告をだして反応を見るとか、専門家などから資料を取り寄せる、といった場面があり、当然の手順だと思うのですが、この「種まき」の結果を待つ間、ホームズが食事を楽しんだり、舞台観劇を楽しんだりするシーンが印象に残ります。「材料が揃わないのにあれこれ判断するのはよくない」という理由から、自身でできることがなくなって、種まきの結果が出るまでは事件のことは考えず、「今を楽しむ」ことに時間を使うわけです。(種まきも含めて)今できることは最大限全力でこなして、それがないときは今を全力で楽しむ、という「イマココ」の彼のスタンスは、彼が扱う事件の闇、ダークな側面を忘れさせてくれます(相棒のワトソンや依頼人たちは気が気でないでしょうけど)。ホームズ並みの観察力や推理力や分析力を真似することは到底ムリでしょうが、この「イマココ」にフォーカスした前向きさはぜひとも手に入れたいと思うわけでありました。

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