シン・デカルト論

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素人的デカルト解釈

 「我思う、故に我在り」…フランスの哲学者、デカルトの有名な言葉で、誰もが聞いたことがあると思うのですが、みなさんどんな意味だと思ってましたか?調べてみると…

 世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない、ということ

(「コトバンク」より)

 …だそうです。私も初めて聞いたのは中学校だか高校のときでしかも歴史かなにかで出てきたので、意味までは分かりませんでしたが、私は勝手にこうゆうふうに理解していました。

 人間というのはあれこれ考えることにこそ、人間としての存在意義があるのであって、思考停止して周囲に流されるままに生きていたのでは生きている意味はないんだ、と。

 私と同じように解釈していた人って意外に多いんじゃないでしょうか(勘違いだったらごめんなさい笑)。解釈としては違っていても「周りに迎合するな」はある意味真実ですから、そう思い込んでいても不都合はなかったわけです。まるでシャーロックホームズが地動説を知らなくても探偵業に不都合が生じなかったように。

 そこで、でもでも、それじゃあ、こんな解釈も許されてもいいんじゃね、と最近思うようになったのが、エック・ハルト・トールさんの著書である「ニュー・アース」からヒントを得た、こんな解釈です。

 「私」というアイデンティティは、「思考」が創り出したもので、「私」という「概念」を持ち出し、「私」という設定をしてしまったために、「他人」との比較で自分を蔑(さげす)んだり、自分の存在を正当化するために他人を批判・攻撃したりして、自分を、そして他人を苦しめ、そして世界はそんな苦しみに溢(あふ)れ、苛(さいな)まれてしまう…でもそれ(「私」という概念・設定)は「思考」が創り出した錯覚にすぎないんだ、と。

AIが自我に目覚めるとき

 ちょっと何言っているかわからないんですけど、という声が聞こえてきそうなんで、視点を変えて。

 ジェームス・キャメロン監督により「2(ツー)」が大ヒットした映画「ターミネーター」ではスカイネット(AI)が1997年8月29日午前2時5分に自我に目覚めたことで、スイッチを切ろうとする人間と戦争を起こしますが、「自我に目覚めた」とはAIに魂のようなものが生成され、宿ったということでしょうか、多分違うでしょう。おそらく自己防衛・自己保存の機能(人間でいうところの生存本能)が起動しただけなのだと思います。その手法として生活保護を申請するでもなく、法廷で人権を主張するでもなく、人類を排除する方がてっとりばやいと判断しただけだと思います。だって、人間の作ったルールって、とっても自分勝手で屁理屈で理不尽ですもん。なぜ犬や猫を殺すのは動物虐待で、魚や鶏や豚を食べるのは許されて、イルカやクジラを捕獲するのは「う~んどっちとも言えない」となるんでしょう。なぜ「痴呆老人に生きてる意味がない」なんていったらとんでもないことだと糾弾されて、ドラえもんやアトムのような学習する思考型ロボットが人間に歯向かったらスクラップされるのは当然だとなぜ言い切れるのでしょうか。話がそれてしまったように思われるかもしれませんが、こうした問いに自信をもって明確に答えられないとすれば、「私」という存在も実体のあいまいな、不明確なものに見えてくると言わざるをないのではないでしょうか。「私」というアイデンティティも人間に備わった自己保存のためのプログラムが機能することによって生じた錯覚にすぎないのではないか、と。

 ある日、お宅のルンバがあなたの足元にガンガンぶつかってきたとすれば、それはルンバがあなたをゴミと認識して排除しようとしているのかもしれません。そのとき、あなたは「おい、俺だって平日はへとへとになるまで働いているんだよ、土日ぐらいはダラダラさせてくれよ」とルンバとの対話を試みるでしょうか、それとも電源スイッチに手を伸ばしてルンバとのとっくみあいを始めるでしょうか。

五蘊(ごうん)について

 次に、「五蘊(ごうん)」という仏教用語を用いてデカルトをバッサリいっちゃってみましょう。五蘊とは、「五つの集まり」という意味で人間の構成要素を「色(肉体)・受(感覚)・行(表象)・想(意志)・識(判断、認識)」に分けていますが、仏教の思想では、人間はこの5つの要素が機能して、肉体的・精神的に人間を成立させているのであって、そこには「私」(=自我といってもよいかもしれません)という実体があるわけではないと説いています。

 これを雲黒斎さんのyoutubeチャンネルでは、人間は五蘊を構成要素とする「複雑系(複数の要素が高度に複雑に関連しあって全体として何らかの性質を振る舞う集まり)」であって、そこに「中央指令センター」(=私、自己)があるわけではない、五蘊というそれぞれの機能を発揮する部署(セクション)はあっても、それを統括する「社長」は探しても見つからない、社長がいない会社みたいなもんだ、というふうにとても分かりやすく説明してくださっています。

「我」なんて「在らず」

 こうしてみてみると、AIも人間も「中央指令センター」のない「複雑系」であって、その「複雑系」が、「他の誰でもないかけがえのない私」がいるように振る舞っているに過ぎないのではないか、「我」が「在る」ような錯覚があるだけなのではないか、と思えてきます。

 だとすれば、「私」と「あなた」、「自分」と「他人」を区別することから生じる、争い、競争、比較、勝敗、優越感、劣等感、妬(ねた)み、不公平感、はすべて「幻想」で、これに一喜一憂反応することが「アホくさ」と思えてくるのは私だけでしょうか。

まとめ

 私はよく、イワシの群れが自分たちを巨大な魚に見せようと一糸乱れぬ動きで隊列を組んで泳ぎ回る映像を思い浮かべます。群れの中のそれぞれが「今度はこっちに行くのかよ、めんどくせぇな」とか「お前いつも近すぎんねん!うざいねん!」とかは考えてないと思います。群れ「全体」の無意識に従い、その一部の役割を全うするという芸当をコミュニケーションの手段なしに「え、フツーですけど、なにか」とこなしています。

 私さっき「アホくさ」的な発言をしましたが、これは実はウソというか強がりで、いざ自分が他人から責められたり、不公平な扱いを受けたりすれば、瞬間湯沸し器のように頭に血が上り、まくし立てて反論したり、他人の不幸を心の底から望んでしまいます。まんまと「私」という「錯覚」が仕掛けてくる罠に落ちてしまうのです。そんな自分をごまかして自分をかっこよく見せようと言ってしまったんです、「アホくさ」と。

 で・す・か・ら、(まとめと言いながらまとまりそうにないので強引に結論に行きます)つまり何が言いたいのかというと、彼ら(←イワシさんのことです。)のように全体との調和を第一に考えることができる人になりたい、一段上のステージから「アホくさ」と自分を見下ろすことができる人になりたい、と願いうわけでありました。(厳密にはイワシの群れも自分が属する群れ全体のアイデンティティを維持するために自分を大きく見せようとしているんでしょうけどね)

 とはいえ、「私」はいない、ということになれば拠って立つべきもの、心の支えというようなものが奪われたようで、不安になると思います(この「拠って立つべき心の支え」が複数ある(=各人各様である)ことが諸悪の根源のような気がしますが)。そんな私たちに安心を与えてくれるはずのものが「私は全体の一部なんだ」という感覚だと思うのですが、このスピリチュアルな問いに関しては、まだまだ研究中なので、またの機会に議論したいと思うわけでもありました。

  

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