母は偉大だ

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 腸の手術と長期入院を経て現在自宅療養中の母の話である。手術はどうやら成功だったようだが、80歳を超えての開腹手術が母の体力をだいぶ奪ったようで入院中はしばらく寝たきりに近い状態だった。自宅に戻ってリハビリがてら掃除・選択などの家事を行いだいぶ元気をとりもどしつつ、食事の世話は姉がもっぱら担っていたところ、姉が残業で夕飯の支度は私がやることになったある日のこと。

 私も料理には不慣れなため少し母に手伝ってもらうことになり、米研ぎをお願いしたのだが、この手術前以来1年半ぶりの「米研ぎ」ができたことに母はいたくご満悦で、その後も嬉々として豚キムチ炒めの製作への協力を惜しまず、小学校の科学の実験のようなイベント感満載の作業は、食後の母に「たのしかったな」と言わしめたのである(「おいしかった」ではなく(笑))。

 子どもがテーマパークにでも連れて行ってもらったときのようなこの「歓び」はどこからやってくるのだろうか。それは当然「自分自身の成長」である。他愛もない誰でもできるようなことでもそれが「昨日の自分」と比較して進歩していることが実感できるのであれば、それが「歓び」につながるということだろう。

 またある日私が出勤の支度をしているとき、母が「1000円貸して」という。なにかと思えば近くのスーパーにひとりで買い物に行ってみたいとのこと。杖をついて歩けるようにはなっており、表に出て庭の草むしり程度はやってはいたものの、一人で自宅の敷地外への外出は1年半以上していない。近所までの散歩なんて大そうなことかと思われるだろうが、通院のため車の助手席に乗りこむ動作さえもおそるおそるだった母の、変化というか、前向きな姿勢というか、チャレンジ精神に敬服したところである。

 病気やケガをしているときに健康な人と自分を比較して悲観しても何も始まらないし何の意味もない。自分と向き合うことが何よりも大切で療養中はその時間もふんだんにあるわけなのだが、わたしたちの普段の生活は、なぜか周囲(=他者)との比較で忙しく、嫉妬や不満、刹那的な優越感の渦の中で自分を見失いがちである。「他人との比較」をしている時間があるなら昨日の自分をアップデートしてその成果を実感した方が、明日の自分にとって有益なのは言うまでもない。したがって「他人との比較」を手放す生き方を体現してこのことに気づかせてくれた母は「偉大」なのである。

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