「逃げるが勝ち」のときもある

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 記念すべき第1回目の投稿です。

 今回とりあげたのは、村上春樹さんの小説「ダンス・ダンス・ダンス」からの一節から得られた気づきです。

 実はこれは私が職場で勤務時間外に「財務事務勉強会」と称して開催し、その「おまけ」として参加者にシェアした内容でもあるのですが、なぜそんな「おまけ」を準備したかというと、その当時市役所全体として、各部署が担当や責任の押し付け合いをしたり、上司が部下を罵り、部下は上司の愚痴を言う、といった具合に職場のコミュニケーションは最悪、また、市民からの苦情や不満、議会からの追求の対応に職員が神経をすり減らしていて、息苦しいくらいにネガティブオーラに包み込まれているように感じられて、苦しんでいる職員に少しでも楽になれるエッセンスを注入したいと思い実行してみたのでした。

 主人公の「僕」(34歳)がふとしたきっかけで知り合った中学生の「ユキ」。親子でもない二人の、物語とは直接関係ないやりとりをまずはご覧ください。

ユキ「夏休みからずっと学校に行ってないの 勉強が嫌いなわけじゃないの。ただあそこの場所が嫌いなの。我慢できないの。学校に行くと気分が悪くなってすぐ吐いちゃうの。毎日吐いてたわ。吐くとそのことでまた苛められるの。みんなが苛めるのよ。先生まで一緒になって苛めるの」

僕 「僕が同級生だったら、君みたいな綺麗な子は絶対苛めないけどね」

ユキ「でも逆に綺麗だから苛めるってこともあるんじゃないかしら?それに私、有名人の子供だし。そうゆうのって、すごく大事にされるかすごく苛められるか、どちらかなの。そして私はあとの方なの。みんなと上手くやっていけないの。私はいつも緊張してなくちゃならないの。(中略)そして苛めるの。すごく嫌らしいやりかたで。信じられないくらい嫌らしいの。すごく恥ずかしいことをするの。そんなことできるなんて信じられないようなこと。だって…」

僕 「大丈夫だよ そんなつまらないこと忘れなよ。学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくないなら行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌な奴がでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやりかたで生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴が良い成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そうゆうことって変らないんだ」

ユキ「本当にそう思う?」

僕 「学校のくだらなさについてなら一時間だってしゃべれる」

ユキ「でも義務教育よ、中学校って」

僕 「そういうことは誰か他の人が考えることで、君が考えることじゃない。みんなが君を苛めるような場所に行く義務なんて何もない。まったくない。そういうのを嫌だという権利は君にあるんだよ。大きな声で嫌だと言えばいいんだ」

ユキ「でもそれから先はどうなるの?ずっとこういう事の繰り返しなの?」

僕 「僕も十三の時はそういう風に思ったこともあった こんなままの人生が続くんじゃないかって。でもそんなことはない。何とかなる。なんとかならなかったら、またそのときに考えればいい。もう少し大きくなれば恋もする。ブラジャーも買ってもらえる。世界を見る目も変わってくる。」

ユキ「あなたって馬鹿ね あのねえ、最近の十三の女の子はみんなブラくらい持ってるわよ。あなた半世紀ぐらい遅れてるんじゃない?」

僕 「へえ」

ユキ「うん」「あなた馬鹿よ」

僕 「そうかもしれない」

…わたしたちには「学校には“行くのが当たり前”」という刷り込みがあるため、学校に行かないことを「わるいこと」「恥ずかしいこと」「マイナスなこと」「汚点」「傷」のように捉えていおり、親や周囲に心配をかけたくなくて言い出せないということもあると思います。

 が、しかしながら、身体的・精神的に危険にさらされているときは、「逃げる」という選択肢を優先することもあるということですね。(以前クラスメイドに嘔吐物を食べさせるという壮絶ないじめがありましたが、そんな学校に自ら足を運んで通う必要は“当然ない”ということです。登頂を目指す登山者も天候が思わしくなかったら引き返すことも「勇気ある撤退」であり「賢い選択」というわけです。)

 特に、学校は、あまりにも狭く、閉ざされた社会であるにもかかわらず、子どもたちにとってはそれが全世界ですので、そこから「逃げる」ということがあり得ないということになっています。さらに、精神的に追い詰められているとあらゆる選択肢に気づくという思考回路も停止してしまって「自ら命を絶つ」という極端な選択肢が一番ラクに思えてきてしまうようです。だからこそ、周囲の大人たちは、そんなことないよ、「逃げるが勝ち」のときもあるよと「あらかじめ」許可しておくことが大切だと思います。

 ここで、今回の気付きにおけるキーワードを2つ整理したいと思います。

 ひとつ目は、「選択肢」。これを広げるということです。多くの選択肢を持つことは、「可能性」であり「自由」です。一見「逃げ道」のような選択肢でもそこには素晴らしい出会いや出来事が待っている可能性にあふれています。私は学校の先生や仲間にはいろんなことを学ばさせていただき、経験させていただいてもちろん感謝していますが、一方でそれは学校という社会である必要は必ずしもなかったとも思っています。塾、家庭教師、フリースクール、習い事、趣味のサークル、その他さまざまなコミュニティがあり、そこで何を身につけ、何を学ぶかは、「自分次第」なのではないか、そしてそのサポートが両親の役目なのではないか、と今では思っています。

 もうひとつは、「許可」です。先ほど申し述べたとおり、学校に行かないことは「わるいこと」「恥ずかしいこと」「マイナスなこと」「汚点」「傷」という刷り込みをはずすためには、「そんな大人数にいやがらせされて勝てるはずないじゃん、多勢に無勢というものだよ、そこに立ち向かう必要はないよ」と周囲の大人たちが許可してあげる必要があります。とはいえ、当の本人にとっては、自分と向き合い、自分の弱さ(弱さというのは正しい表現でないかもしれません。自分がいじめの被害者であるという現状、といった方が正しいでしょうか。あるいは自分も含めて人というのは無力な存在なんだなという事実、とでも表現すべきでしょうか)を認めるということは、プライドが邪魔をしたり、両親の期待に添えない罪悪感が邪魔をしたりと、困難や痛みを伴うと思います。どうぞ親御さんたちは、自分の弱さを認めて「逃げる」ことを「許可」する判断も「勇気=内面的な強さ」の表れであると我が子に伝えてあげてください。

 そして…わたしたち大人が、仕事のプレッシャーで押し潰されそうになったときも、まったく同じです。ズル休みをして旅行してみる、カウンセリングを受けてみる、休職する、趣味に打ち込む、サイドビジネスを始める、転職する等々多くの「選択肢」を持って、そこに逃げ込むことを自分自身に「許可」してあげてください。

 私自身、村上春樹さんというビッグネームに「許可」してもらった感じがして、自分が何者なのかも分からず、いろいろと思い悩んだ学生時代に自分軸で生きていいんだと心をラクにしてもらえた記憶があり、今回この本を取り上げさせていただいたわけです。そして何よりも、仮にこのサイトに記事が今後積みあがっていくとして、継続してシェアしていくためにも、見てくださるみなさんに「生き続けていただく」ことが大前提というわけで、まず最初にこのようなテーマを扱ってみた次第でございました。

 実は、この“「逃げる」メソッド”の効果を最大限発揮する必殺技もございまして、別の機会で紹介したいと考えていますので、乞うご期待!という訳で今回はこのあたりで失礼します。

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